「公衆衛生ねっと」 災害時の公衆衛生

渡會睦子の支援活動 F

○3月22日(火) 最終日

・京都、姫路、新潟、徳島、静岡、兵庫、西宮市、徳島等、各県から2〜5名ほどの派遣保健師で朝のミーティングは密集している。派遣保健師たちは約1週間で交代し、次のメンバーが各県から派遣されてくる。3月14には兵庫県の保健師さんが入っていて、私が参加したころには疲労感がにじんでいた。最初の1週間は怒涛のごとく過ぎ去るので相当大変だったろうし、すばらしいご活躍をされたのだろうと思った。
・被災地の保健師さんたちはご自分が被災したり、周囲の人が見つかっていなかったりしながらも、初日の48時間は寝ずに対応されていた。強く敬意を表します。
・お忙しい保健師さんたちが後で、力を抜いてもよい日が来たときに見れるように、寄付させていただいた服の近くに保健師さんたちへの敬意と服を活用してほしい旨書いた紙を張った。
課長さんとのお別れの際、「外部から来た人から見て、区に任された采配を自分がちゃんとできていたのか不安だった」ともらした課長さんに、その紙を見せ敬意を表していることを伝えたところ、涙を流されていた。すばらしい課長さんをはじめとし、保健師さんたちの生活も早くもとに戻ることをお祈りする。
・避難所に午前中行き、NHKの取材に当たった。目的はもちろん、すばらしき保健活動のPR。若林区の保健師さんたちが忙しすぎて対応できないところを、代弁することも保健師さんに約束したので力が入る。
子どもたちと昨日行ったような絵を描き、ポスターを作り、感染予防対策も行いながら心のケアも行う趣旨で収録。
23日の早朝にNHK仙台で流れたようだが、東京に帰ったので見られなかったが、仙台市役所から映ったと連絡が入った。保健師活動がPRできたか、映像を見ない限り心配である。
・子どもたちが絵を描いていると、ゲームばかりしていた中学生が興味を示してくれた。子どもたちを中学生が面倒見てくれる関係作りができた。よかった。

・西宮市の保健師さんたちと握手をしてわかれ、子どもたちや避難者の方々、町内会の方々とハグや握手をして涙ながらに別れを惜しんだ。1週間もいられなかったのにつながりは濃い。もっとそばにいたかったけど、みんな前を向いて進んでいるし、交代の保健師さん方がいらっしゃるので大丈夫。
・ただ、現実を受け入れ始め今後の生活を考えたときに、仲が良いと思われた人たちでも嫉妬などの感情が表れ、複雑になってきたので、記録に残し引き継いだ。

13:30 若林区役所に戻り子ども服をダンボール大1箱に詰め込み、タクシーで宮城県山元町に向かった。南相馬市に隣接する町で、渡會の保健師学生時代の実習先であり、2ヶ月近くお世話になった。

14:10 4号線沿いのパチンコ屋に「強盗に入られたため金目のものはありません」という張り紙が見える。人のいない建物に強盗が入る事件が多発しているため予防なのかもしれないが殺伐としている。

14:15 4号線沿いの名取市の遺体安置所になっているボウリング場に立ち寄った。
神戸の震災では避難所に運ばれてくる遺体のために棺を作った保健師もいたと聞いていたし、避難者の方々やその親戚の人の感情をちゃんと理解してケアを考えるためにも寄らせていただこうと決心した。
とても広いボウリング場のレーンに横に渡す形で棺がおいてあり、頭側に泥だらけの持参品・着衣がビニール袋に入れられ、何が入っているのか特徴が書かれている。
私は棺の中のお顔を見ることがとてもできなかった。ターミナルケア経験者の山形県立の先生が苦しんで亡くなったのか否か確認するためにも棺の中のお顔を見ているのを見て、意を決して覗こうと思ったが、避難所の方々やいろんな方々の気持ち、なくなった方々の気持ちが交差し難しかった。
申し訳ない思いを持ちながら覗かせていただいた。青あざも隠れるように死に化粧がきれいにしてある。顔が見られない棺もある。
持ち物にブラジャーと書いてあるだけで若い女性であることが連想され、苦しくて覗けない。
棺を囲んで「遺体が見つかっただけでいいよ」「苦しそうな顔じゃないだけいいよ」と母をなだめる男性、家族の鳴き声、身元不明の多くの遺体、いたたまれなくなってそこを後にした。
少しでも多くの方々がご家族の元へ戻られること、ご冥福をお祈りいたします。

15:00 宮城県山元町到着
人口16,695人 
3月11日14時46分地震発生 14時49分大津波警報発令 14時52分避難指示 15時30分ごろ大津波襲来
○死者 452人 ○行方不明者 465人 ○重傷者  9人・軽症者 81人(救急搬送分)
避難所・避難者数 9カ所・3,450人
人口の2.7%が亡くなり、2.8%が不明、20%が家に戻ることができないでいる。

・山元町に入った瞬間、自衛隊、全国から集まった消防車が見え、捜索活動をしている。外にテントを張り寝泊りするくらい避難所は避難者でいっぱいなのがわかる。
・電気は通っているがライフラインがなく、自衛隊が給水車・炊き出しを管理している。人口の被害が大きすぎ、町内会で運営するどころの話ではないように見える。
・保健センターには2県の派遣保健師が入っていたが、足の踏み場がないほど人がいる。
・初対面の保健師さんに事情を話し、子ども服を運んできたことを話した。見るからに手が足りなそうで、手伝って帰りたいが今日帰ることを伝え、保健師さんの頑張りのすばらしさをたたえ、心から応援していることを伝えた。保健師さんとお互いに涙を流しハグし合い、本当にいっぱいいっぱいであることを感じながら、後ろ髪をひかれる思いで保健センターを後にした。
・町役場の本部で物資受付表に名前を書き、子ども服のダンボールを預けた。タクシーで届けたことに驚き感謝してくれた人の顔が忘れられない。タクシー代なんて問題じゃない・・・。皆さんのほうがずっとずっと頑張っているのだから・・・(涙)
・山元町役場の前を走る6号線を境に津波の被害を受けており、山側の役場は助かっている。
仙台は高速道路が防波堤になっている。ところが山元町は高速道路の終点であり、その終点に沿って、波が入ってくるポイントになってしまったように見える。
家という跡形がない。立派な新しい家は枠だけ残っているような様子。JR常磐線の線路がただの棒のように線路とはわからない形で一部が見える。
とても太い木が根こそぎ流されてきている。
被害にあった車は給油口があいていてガソリンが抜かれた後がある。

16:00 宮城県山元町を出発し仙台へ向かった

17:00 仙台市若林区役所到着 (タクシー代23570円山形県立大の先生方の餞別からいただいた)
若林区役所の保健師さんに状況を報告しながら、前日に他県の保健師さんからいただきキープしていたワンタンメンのカップラーメンを幸せに食す。

18:00 16日の物資搬送を手伝ってくれた運転手さんが山形から仙台に仕事で来ていたので迎えに来てもらい山形へ出発。

19:30 山形市総合スポーツセンターの福島・宮城からの避難者受け入れ所に行った。手厚く、被災地よりも幸せすぎるように見え、複雑な気分になった。
受付で放射線測定器で測定。当たり前だが異常なし。体で証明したので、世の中に過剰に反応してほしくないと思う。

20:00 山形県立保健医療大学到着(タクシー代26060円山形県立大餞別+自費)・報告

21:00 自衛隊員夫婦の姪(本人は子どもを生んで引退)に迎えに来てもらい空港へ
自衛隊員も死体を見たこともない若い隊員も捜索・搬送をしている。交代で基地に帰ってきたときにカウンセリングが受けられるように、自衛隊の中にカウンセリング室ができたことを教えてもらった。
これからはあらゆる人たちのメンタルケアと抵抗力が下がってきているので感染症予防が重要だ。

雪の中、山形発⇒東京着22:45⇒23:50 

○3月23日(水)1:15帰宅 

地震でガスの元栓が閉じたらしくうまくいかず、2時まで格闘し1週間ぶりのお風呂。隅々までアルコール綿で毎日清拭していたため体臭が薬品くさいといわれた体を洗った。現地の皆さんはまだお風呂に入れずにいます。今の自分と環境を贅沢だと思っています。
○3月24日(木)FM山形の収録。山形・仙台でお世話になった人たちへ感謝の意をラジオで伝えた。
岩崎敬のラジオロイド 3月25日15:00〜か16:00〜の放送予定

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